ヒアちゃんと過ごした夜②

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ホテルに入ると、ヒアちゃんはベットにあがりこんで、なにやらバックをごそごそしだした。
とりだしたのは手のひらサイズのふわふわのアライグマのマスコット(”ターシー”と彼女は呼んでいた)。気づくとヒアちゃんとターシーは、私たちそっちのけで内緒のおしゃべりをはじめていた。「番組のあいだずっと一人ぼっちにしててごめんね」と言わんばかりの表情で、いいこいいこをしたかと思うと、おもむろにふかふか枕からカバーをはずす。何するんだろうと思っていると「これがあなたの今日のベッドよ」と中身が抜けてぺっちゃんこになった枕カバーの上にターシーをおき、「これはカトゥーンからのプレゼント♪今日は一緒に寝るのよ」と、ターシーとほぼ同サイズのミニーマウスのぬいぐるみを一緒に並べている。そのうちミニーはほっといて、ターシーをやさしく丁寧に枕カバーでくるみ、抱き上げると「ねんねんころりよ」と歌いながらあやしだす。おままごとを楽しむ少女のようだった。


お母さんはソファに座り、そんなヒアちゃんを微笑みながら見ている。


ヒアちゃんは自分の世界に入っているので、ディレクターと留学生二人と私たちはヒアちゃんを見守りつつお母様といろいろお話をした。


ヒアちゃんを産むときのこと、ピアノを習い始めたときのこと、ヒアちゃんが弾くショパンのこと.....。


時々、「で、お母さんの今の話を聞いてヒアちゃんどう思う?」と留学生のKさんが聞くと、たいていターシーに夢中な様子でしばし返答なし。「ヒアちゃん、今、聞いてなかったでしょ」と突っ込むと、「ちゃんと聞いてたわよ。で何の話?」と楽しそうに答える。


底抜けに明るいヒアちゃん。今日改めて会って話してみて、やっぱり尊敬するなと思ったところは、自分の障害を隠さないこと。周囲を巻き込んで楽しんじゃうところだ。


アメリカはノーマライゼーションなど障害者理解の運動が比較的進んでいる国。でもヒアのコンサートにきた子どもたちの中には、ヒアの姿を見るなり泣き出してしまう人が少なくなかった」とお母さんは言っていた。


「みーーんな泣いてて私だけ笑ってたのよね。ふふふ。お前はほんとうに明るいなってお父さんにも呆れられながら感心されてたよね」とヒアちゃんはにこにこしてる。


笑いで悲しみを吹き飛ばすって聞いたことがあるけれど、ヒアちゃん見てるとそのとおりだなと感じずにいられない。私も笑顔大事にしよう。


お話がひと段落するとヒアちゃんは携帯電話を出してきて中国語の着メロを流しだした。私まだ歌えないよ....なんて心配をよそにヒアちゃんは次々に中国語の歌ばかりをセレクトし歌ってくれた。


24時間テレビではチョゴリを来たんでしょ?」とKさんが聞くと
「もう一回着てあげてもいいわよ」と急遽お着替えタイムに。(ディレクターは部屋を出され、ピアノの先生は目を閉じて後ろを向かされた)


「きれいね。ビューティフルよ」と伝えると「漂亮〜(ピャオリャーン:あなたも美人さんよ)」と私に向かってリップサービスも。


写真をみんなで撮ろうというと、モデルさんのように指を顎の下にのせすました顔でポーズをとってくれるヒアちゃん。常にサービス精神大満点。


本当に笑顔の耐えない時間だった。


小さな頃キラキラと光る指輪や石や首飾りを集めては小箱に大切にしまったように、今日のヒアちゃんたちとの思い出も心の中にしまっておこう。疲れたときやちょっぴり寂しい夜には、小箱を開けて楽しむように、そっとこの日を思いだそう。




●おまけ●

番組を通じてヒアちゃんとヒアちゃんのお母さんの声は聞いていたので、実際に会ったときも「あ、やっぱり明るくて優しくて、気さくな感じな親子だわぁ」と、特別驚くことはなかった。でもピアノの先生には少し驚いた。先入観でヘレンケラーのサリバン先生ばりな初老の女性だと勝手に思い込んでた。けれど、目の前にいらっしゃるのは大学生くらいに見受けられる若くてさわやかな青年。実際私の描いていた先生もいたようだけれど何回か交代があり彼は1年位前からヒアちゃんを見ているのだそう。韓国で4-5念前にCDを出したときのものと聞き比べると、日本でのコンサートでの演奏は飛躍的に上達しているのは、どうやら彼のおかげらしい。聞くと、これまでの先生は譜面に忠実に弾けるよう、まじめに教える人がほとんどだったようだ。でも、彼は作曲家でもあり、練習を見ていてヒアちゃんの不得意なところは大胆に削り、省略できるところは省略し、得意なところを残すように大幅に譜面を書き換えているのだという。その結果、ヒアちゃんは以前よりいっそう生き生きと四本指での演奏を楽しむようになったそう。クリエイティブな先生で、ヒアちゃんがきちんと弾けることより、楽しく弾けるよう考えてくれるお陰で、ヒアちゃんも嫌がっていた練習を嫌がらなくなったとお母さんは言っていた。