やっぱりね、

自分の人生に起きる出来事や、登場人物の方々を確認すると、

必要な人とはつながるようになっているし、
必要だから出会っているんだなあ、と思う。

いくつもの偶然のような出来事も、
起きるべき順序で、起きるべくして、起きている。


私の場合、人より密度濃く、それが起きているような気がしていて。
だから、時々、振り返らないと、だれと、どこで
どうつながっているのか、ぐっちゃりとしてくる。
だから、適当なタイミングで、整頓をしなくてはと思ってる。
思いながらも、怠け者なので、だいぶ放置してしまっていて、
やっぱり、ぐっちゃりとしてきてしまった。


ちょっとだけ、ほぐしておこ。


中学生のころ、物書きになりたいって漠然と思っていた。
国語の教科書に載っていた向田邦子さんの「父のわび状」の作品が、とにかく私を呼んでる気がしたから。

高校生になって、国際的なジャーナリストもいいなと思い始めた。
世界を自分の目で見て回って、それらを感受性びんびんな高校生たちに
語ってくださった鶴田育子さんというジャーナリストの存在が大きい。

魅力的で、国際色豊かな友人たちとの出会いも私の一生の財産、宝物。
国際高校の環境はとてもとても居心地良くて、
多様な価値観に触れられる世界を垣間見れたことは、その後の
価値観形成にものすごく影響している。

2000年にフジテレビで放映された
張麗玲(ちょうれいれい)さん、横山隆晴さん制作のドキュメンタリー、
「小さな留学生」という番組にも感銘を受けて、将来は「伝える」仕事をしたい、
って漠然とながら思い描いていた。

社会人になって、自分のやりたいことを仕事にするなんて夢は甘い、ってようやくわかりはじめたような気がして、そういう熱い思いはしばらく封印し用と思っていたのだけれど…。

今日は、実家のそばの公民館で子守唄をテーマにしたフォーラムの中で女優の斉藤とも子さん
(彼女との出会いについてはこちら))が朗読劇をされていたのででかけたところ、帰りがけ斉藤さんから、「ぜひ見てほしいの」とチラシをいただいた。拝見したら、あの、張麗玲(ちょうれいれい)さん、横山隆晴さんの作品「泣きながら生きて」が映画になって上映されるという案内だった。

なんだか、やっぱり、こっちの世界に呼ばれているのかな。
泣きながら生きて」はすでに別の上映会で見たことがあってとっても素晴らしい作品です。
たくさんの方に見てほしい、って私も宣伝しちゃいます。

泣きながら生きて

(公式サイトより)
1989年、一人の中国人男性が上海から日本へと渡ってきた。丁尚彪(ていしょうひょう)、35歳。上海の街角で日本語学校のパンフレットを手にした彼は、親戚や知り合いに頼み込んで借金をし、日本へとやってきたのだ。入学金と半年分の授業料は合わせて42万円。それは、中国で夫婦二人が15年間働き続けなくては得ることのできない金額だった。上海に生まれながら、文化大革命によって貧しい農村での生活を強いられた彼は、教育を受けることができなかった。日本語学校で学んだ後、日本の大学へ進学することで、彼は人生の再出発を図ろうとしていたのだ。

しかし、日本語学校のあった場所は、北海道の阿寒町。住所の最後には「番外地」とあった。中国から来た生徒たちは皆、働いて借金を返しながら勉強していくつもりだったが、町に仕事はない。かつて炭鉱で栄えたこの町は、過疎化を打開したいという思惑から、日本語学校を誘致したのだ。日本=東京というイメージしか持っていなかった生徒たち、中国人の経済状況を理解していなかった学校経営者……お互いの無知に因る悲劇だった。

多額の借金を返さなければならないため、賃金の安い中国に戻るわけにはいかない。丁は、やむなく阿寒町を脱出し、東京へとたどり着くが、語学学校の生徒ではなくなった彼にビザの更新は認められず、不法滞在者の身となってしまう。再出発への希望が消えた彼は、果たすことのできなくなった夢を一人娘に託そうと決意する。「娘を何としても一流大学へ進学させたい」。見つかれば即座に強制送還という身でありながら、借金を返し終えた後も東京で働き続け、稼いだお金はすべて上海の妻子へと送金した…。

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