猪瀬直樹さんのこと
予感のようなものを感じていた。
「少しだけがんばれば、人生が変わるような出会いが待っている」
先週一週間のオーバーワークで相当にぐったりしていて、
朝も昼もなんとなくぐずぐずしていたけれど。
「少しだけがんばれば、人生が変わるような出会いが待っている」
くりかえし、頭の中に、メッセージが送り込まれてきていて、
押し出されるようにして、電車に乗った。
二子玉川で大井町線から田園都市線に乗り換える階段に着くと、
それでもやっぱり、今日はうちでのんびりしょうかな、って気持ちが盛り上がってきて、葛藤していた。
でもさ、ここまでせっかく来たのだし。行ってみようよ。
もう一人の自分が懸命に励ましている。
その後、もうしばらくもじもじしていると、
「今日の出会いは私の中で特別なものになる」
もう一回、例のメッセージがやってきた。
「やっぱり、行こう」
やっと心を決めて、電車に乗った。
今日は、猪瀬直樹さんに話を聞くことになっていた。(もちろんさしではなくて、その他大勢の一人)
テレビでは見るけれど、間近で話を聞くのは初めて。
どんな出会いになるのかな。
話を聞き始めて、15分くらい。
私は、私の予感が、正しかったと、実感した。
「この人、私をわかってくれる人だ」
それはあるいは恋の瞬間にも似ているかもしれなかった。
言葉はなくとも、向こうから、なんとなく、自分のことを気にかけてくれているんだなっていう空気みたいなものが伝わってきて、私も、おんなじようにして意識するようになるんだろうな、と伝わってくるその空気を受け入れていくような、感覚。
これから公開される映画「丘を越えて」の原作「こころの王国」を猪瀬さんが書いていて、会場にいたみんなでかわりばんこに朗読をすることになったときのこと。
みんな学生チックな棒読み。
なんで?登場人物は、菊池寛と彼の女性秘書。彼女の語りで物語は進む。
場面はすごく明確なのに、なぜみんなはただ文字を追ってるだけなんだろう。
そんな読み方してたら文章がかわいそう。いらいらしてたら、
「次、そっちから読んで」
私の近くの席からまわし読みが始まった。
・・・・先生にその封筒を手渡してから、ぼんやりと他の郵便物を整理していると、啜り泣きの声がする。おや、と思い顔を向けると、先生の小さな目から滂沱の涙が溢れ落ちているではありませんか。
「どうなさったのですか」
先生は眼鏡を外して丸い掌でまぶたをこすりながら、言いました。
「ほら、これを読みたまえ」
先ほどのわら半紙の綴り方です。
先生の涙がわら半紙をぬらしたのは、小学校三年の男子生徒がつづったジャムパンにまつわる表現でした。
「僕は学校でおひるにパンを食べます。そうすると、ジャミがくっつきます。ぼくはたこでもないのにすいつくのはどういうわけだろう。きっと木村屋のパンは生きているからうまいのに違いないと思います」
先生は、そこです、そこのところ、と指で促した。
「作家なら、たこでもないのにジャムが吸いつく、とか、パンは生きている、と表現できなければいけない。でも思いつきませんよ」
私にも思いつきません。うなづきました。貧しい人たちが住む一角について、草間さんはこう説明しています。
「麦飯を喫食すればよいほうで、ことにひどいのは残飯を買ってそれで飢えを凌ぐのであるが、世帯主が仕事にアブれたり長雨にでも出会うとノウチャブといって三度の飯は二度に減らし、二度は一度に減らして空腹で我慢をするものも珍しくはない。・・・・・・・・・
「いい読みだと思いますよ」
私の読みを聞いて、猪瀬さんがコメントした。
それまでは漢字の読みを正したり、ちょっとした言葉の意味を教えたりしたくらいで、あまり反応なし。そのあとの読みにもノーコメントだったから、余計にその言葉が引っかかった。
2時間ほどにわたるトークが終わって、猪瀬さんは
「今日僕の話から自分が得たことを10分でまとめて」
白い紙が配られて、ポイントをまとめる課題を出された。
10分後。
「君、書いたの読んでみなさい」
また、指された。
・・・・・「こころの王国」で菊池寛が訴えているものは何か。ひとつは夏目漱石「こころ」へのアンチテーゼ。彼は教養人ではあるが、その域を出ない。彼が「こころ」で描く主人公は、知識はあっても定職に着かない高等遊民だが、漱石自身も同じでは。それでもこの作品は優れた文学であると未だに教科書に載り続け、教材でありつづける。この価値観は本当に正しいのか。文学はもっと世の中を動かせる。もっと偉大な存在ではあるまいか。文学の低落は、勝算のない戦争に反対できず、第二次大戦を始めてしまった世の中の気運とつながっているのかもしれない。・・・・
「全体的によくまとまってると思いますよ」
うん。だって、猪瀬さんのメッセージ、気持ちで伝わったから、そのまま手が動きました。
話が終わり、会場から事務局の人の案内で、猪瀬さんは出て行った。
あとから事務局の人が教えてくれた。
「出て行きながら、さっき朗読してた子、いいねって猪瀬さん言ってましたよ」
ワタシモ、イノセサン、イイナトオモイマシタヨ。
また、感性に共感できる人と出会えました。
がんばって、でかけて、よかった。
再び、新たな予感。
たぶん、猪瀬さんとは、この先どこかで、いずれまた、お話することになるんだろうな。