宮沢賢治さんに呼ばれた

時々、誰かに呼ばれるようにして、本に出会い、そのときの自分に必要なメッセージに遭遇することがある。遭遇というより、与えられると言った方が近いかも。今日は『宮沢賢治 キーワード図鑑』という本。

宮沢賢治キーワード図鑑 (コロナ・ブックス)

たまたま最近ランチで花巻市の漁港で取れた魚を扱うお寿司屋さんに入った。ラジオから賢治の作品『グスコーブドリの伝記』の一説が流れてきた。身の周りで農業についての話題が増えてきた。

それより、何より。東日本大震災以来、東北のことが気になっていて、お母さん雑誌担当の私が、今できることの一つは、震災ニュースから離れて、ほっとできる時間を、震災の影響を受けるすべての親子に提供することだと、思っていて。

童話や絵本の世界をたくさんの人に届けられたらいいな、と思っていたら、たくさんの人達の協力を得て、親子向けにお話の読み聞かせ番組を音声メディアで配信できることになった。

そんな今日この頃。

朝起きて、部屋の隅にある本棚に吸い寄せられるようにして、目に付いたのが、この本。本当に誰かに、読みなさい、手にとりなさい、と言われているような気がして、取り付かれているような気分で、ページをめくっていた。

私の心に最近引っかかっていた、いくつかの思い。

●それは例えば、農業や漁業など自然とともに生きてきた東北地方の人たちが、地震によって命を追われる体験をしているのに、自然を捨てて都会に住む私は、その苦しみから逃れられているという不平等感。嫌悪感。


●それは例えば、正義や幸せの定義について。


●それは例えば、コミュニケーションという言葉を聞くたびに、うっすらと思い出す、中学生時代の記憶。
「世界中の人と、対等に、公平に、コミュニケーションするためには、どこの言語にも寄らない、全く新しい、言語をみんなで学べばいいじゃないですか」と訴えたところ、「昔、あなたと同じことを考えた人がいたよ」と、英語の先生に『エスペラント語入門』という本を差し出されて、びっくりした思い出。


●それは例えば、「この企画で、いくら稼げる?」と聞かれるたびに、湧き上がってくる「いつの日か『この企画で、何人の人に幸せな気持ちを届けられる?』と聞かれる日がこないかなぁ」という野望にも似た感情。


●それは例えば、絵を描くように文章を書きたい願う気持ち。


私のそうした違和感や戸惑いにも似た思いを、なんとなくわかってくれるような、遠い昔から待ちわびてくれていたような文章が、そこには書かれていた。

以下、『宮沢賢治 キーワード図鑑』から今日の私の心の琴線に触れた言葉たち。

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★「なめとこ山の熊」はとてもさびしい物語である。ここにはどうも救いがない。
淵沢小十郎は熊捕りの名人だ。田んぼはなく、畑も本のわずかあるきりで、しかたなしに猟師をしている。熊を捕り、その毛皮と熊の胆を町の荒物屋に売って、家族を養い、暮らしているのだ。毛皮は荒物屋の旦那に買い叩かれて、二枚で二円にしかならない。実に安い、あんまり安い、それは小十郎だって知っている。

けれども、日本では狐けん(じゃんけん)というものもあって、狐は猟師に負け、猟師は旦那に負けると決まっている。熊は小十郎にやられる、小十郎はだんなにやられる、そして旦那は熊に・・・となるはずなのだ。
けれども、ここでは、熊は小十郎にやられ、小十郎が旦那にやられる。旦那は町の中にいるから、なかなか熊に食われない。旦那は決して熊にやられない。

語り部の「僕」の苛立ちは、旦那(=資本家・消費社会)が決して負けないことだ。
<熊→小十郎→旦那>と連なる、片道切符。

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★「カンパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ」けれどもカムパネルラは天上で消え、ジョバンニはこの世へと戻される。「きっとみんなの本当のさいはい(幸い)を探しにいく」という決意とともに。
ジョバンニの決意が、賢治自身の決意であったことは、彼の生前の行いを見れば明らかだ。「銀河鉄道の夜」を書いた時、ジョバンニは賢治そのものだったのである。

みんなの本当の幸いを求めていくジョバンニ、そして賢治。

ジョバンニは問う。
「けれども本当の幸いはなんだろう」
「僕わからない」
カムパネルが答えるとおり、みんなの本当の幸いが何かなんて、そう簡単にわかることではない。しばらくのあいだは、めいめいが本当に正しいと思うことを、少しずつでも実行してゆくしか仕方がない。そうすれば、世の中は全体として、わずかずつでも良い方向に進むのではないだろうか。

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★世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない

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★イーハトーヴ・・・ 岩手を現すエスペラント語

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★わたしたちは、氷砂糖をほしいくらい持たないでも、きれいにすきとおった風を食べ、桃色の美しい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、畑や森の中で、ひどいぼろぼろの着物が、一番すばらしいビロードや羅紗や宝石入りの着物に変わっているのを度々見ました。
私はそういうきれいな食べ物や着物を好きです。
これらのわたくしのお話は、みんな林や野原や鉄道線路やらで虹や月明かりからもらってきたものです。・・・・(中略)
けれども、わたくしは、これらの小さな物語の幾切れかが、おしまい、あなたの透き通ったほんとうの食べ物になることを、どんなに願うかわかりません。

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★「おかしな葉書が、ある土曜日の夕方、一郎のうちに来ました」と名作「どんぐりと山猫」は始められる。葉書という、ひどく軽やかでさりげない、しかも日常的な通信手段が、やがて一郎を幻想世界へ誘い込むであろうことを予感させる

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などなど。

時折やってくる、言葉ではうまく説明できない、不思議で神秘的な出来事。でも私には必要であり必然な、言葉の世界との出会い。

押し込んだままではいけない気がして。久しぶりにちょっと時間かかったけど。まとめておいた。また、いつか、読み返してみようっと。

<以下ご参考> 宮沢賢治について(Wikipediaより)

宮沢賢治は、童話作家岩手県花巻市生まれ。賢治の生まれる直前に三陸地震津波岩手県を襲い、生まれて5日後に秋田県震源とする陸羽地震が発生、岩手県も被災した。
質屋の子であった賢治は、幼い頃から冷害のたびに凶作で生活が困窮し、家財を売って生活をなんとかつなぐ農民たちの様子を目の当たりにしていたことが、その後の人格形成に影響を与えているという。